鰊御殿と北海道のニシン漁について(私見)とか

ブログでは大変ご無沙汰しております。
何とか夏のイベント×3を駆け抜け、鉄ミュチケット戦争も始まり、そういえばスパークの原稿やってませんね?という昨今、いかがお過ごしでしょうか?鉄ミュ2楽しみ過ぎるー!

今年の夏は、7月23日に文学フリマ札幌(オリジナルBL)、8月14日夏コミ(青鉄)、8月21日インテ(刀剣乱舞)と全部違うジャンルで新刊を出すと言う無茶をしたのですが、中でも文フリには初めて参加したので貴重な経験でした。だって、会場があのテレビ塔の中だぜ!

そんな文フリ札幌で発行させていただきました、オリジナル鰊御殿BL「銀の波咲く」(PixivサンプルBOOTH通販をぜひご利用ください)。
北海道の鰊(ニシン)漁家を舞台にしたBLというマニアックな題材にも関わらずお手に取っていただけたり、「楽しみにしてました」と言ってくださって嬉しかったです。また、「読んだよ!」と言ってくださる方もいらっしゃって嬉しい限りです。
小説本文を読めば何となく登場人物が置かれている状況は分かるようには書いたつもりではありますが、「そもそも鰊御殿って何なの?」と聞かれることも多く、私見にはなりますがちょっとまとめておこうと思った次第です。
そんな訳で以下、小説で題材にした北海道しいては日本におけるニシン漁と鰊御殿についての概略です。
基本的にはwiki等にある内容になりますが、宜しければお付き合い下さい。

<鰊(ニシン)とは>
ニシンは別名春告魚(ハルツゲウオ)とも呼ばれる回遊魚です。
春から夏の産卵期のニシンには脂がのり、卵はお正月料理にも欠かせない数の子になります。かつては春になると産卵の為、沿岸に大群で押し寄せていました。これを群来(くき)と呼びます。

「鰊の群れは,春になると波の静かな日に,日没から夜明けにかけて海岸に殺到し,雌は水深 15~30m の海藻に産卵し,そこへ雄は精子(白子)を放出する.このような産卵状態を,「群来(くき)」と呼ぶ.「群来の時は,海面が白子で真っ白になり,棒を立てても倒れないくらいだった」と当時の様子を記憶している人々は語る.」(「近代北海道における鰊漁業の歴史地理学的研究―衰退期に注目して―」)

漁のシーズンは春~初夏(3~5月頃)の限られたシーズンとなります。
ニシンは近代北海道の発展を支え、かつて北海道の漁獲量の大部分を占めていた魚です。明治中期~後期にかけての主な漁場は富山県沿岸~秋田県沿岸だったのが、大正に入り漁場が青森~北海道に北上。北海道では大正期にニシン漁最盛期を迎えますが、昭和に入ると北海道でも漁獲高が減少し、終戦を迎えてから十年ほど経った頃道内での漁獲はほぼなくなります。

<ニシンがどうしてお金になったのか>
鉄道好きであれば函館の駅弁の代表として身欠き鰊弁当があることをご存じの方もいるかもしれません。ニシンは江差のニシン蕎麦など、北海道の食を代表する魚ではありますが、大量に水揚げされていた時代のニシンの大部分は食用だった訳ではありません。
江戸期の北海道でのニシン漁も当初は食用だったようですが、本州で商品作物である綿花や藍、菜種等の栽培が盛んになるにつれて、干鰯のような肥料として着目されます。ニシンの絞り粕である鰊粕が干鰯のように金銭で取引される肥料(金肥)として加工されるようになるのです。
当時はまだ化学肥料がなかった時代です。鰊粕は高窒素肥料として高額で取引され、北前船で北陸をはじめとした本州に輸出されており、ニシンが北海道と日本各地を繋いでいたのです。
鰊粕は米俵と同等の価値があるものとして取引されていたとも言われていますが、鰊の漁獲量の減少と化学肥料の登場により、鰊粕は肥料としての役目を終えることになります。
この鰊粕を作る作業というのは大きな窯でニシンを海水で煮て絞り、粕を粉砕して乾燥させました。ニシン漁はニシンを獲るのに人が必要なだけではなく、その加工にも多くの人手が必要で、干すための広場も必要というものでした。広大なニシン干場を使って運動会をしていたところもあったようです。

<鰊御殿とは>
鰊御殿(にしんごてん)とは、wikipediaでは「第二次世界大戦前に、北海道の日本海側に建てられた、網元の居宅兼漁業施設(番屋)の俗称である」と定義されています。実際鰊御殿と呼ばれている建物には漁場施設だけに限らずニシン漁によって得た資産によって建てられた建造物(青山別邸など)、松前藩時代のニシン漁に関連する建物(運上屋)を包括して呼称している場合もあります。いずれも、ニシン漁によって得た莫大な資産によって豪華であったり巨大な建造物であることが多く、黒檀などの高級な建材を利用していることも多いようです。居宅兼漁場施設の場合は、出稼ぎ漁夫達の寝泊まり場所も兼ねていることも多くかなり大掛かりな建物になります。

ニシン漁は時代によって漁法や漁場主の立場が変わりました。
詳細は省きますが、漁法の改良によって一度に獲れる量が増えるに従い、漁に必要な人員も増えていきます。網元に雇われていたのは最初期は元々住んでいたアイヌの方や、道内の出稼ぎ者でした。漁が大規模になるにつれ、明治後期~大正、昭和初期になると東北地方を中心に大量の出稼ぎ者を各ニシン漁家が雇うことになります。
江戸時代に蝦夷地を管轄していた松前藩の商業知行制の下、特権商人による場所請負人制により行われていたニシン漁は、明治に入り場所請負人制が廃止されると自由漁業となり、持ち主が変わった漁場が多かったようです。
モデルにさせていただいた現小樽市祝津にある青山家の初代は現山形県遊佐町の出身です。北海道に渡った後慶応3年にニシン漁業を開始し、明治6年に定置網漁を開始。そして明治9年には定置網漁場を取得しています。
青山家のように漁場を得た漁家は、一年の内漁の期間の春~初夏にかけてを出稼ぎ者を大量に雇い入れ漁を経営し、莫大な資産を得るようになりました。

<青山家について>
小説はあくまでフィクションとして書きました。主人公政文の家も春山家としていますが、モデルとしたのは先程も例に挙げた青山家です。青山家は初代留吉により明治中頃には「祝津の御三家」(祝津の三大ニシン漁家)と呼ばれるほどになっていたニシン漁家です。
北海道開拓の村に旧青山家漁家住宅としてメインの居住住宅が移築されています。朝ドラマッサンで会津からの移住者でマッサンに協力をしてくれる熊さんの家はこの青山家を利用して撮影していました。私自身は読んでいないのですが、ゴールデンカムイにも出てきているようです。(ゴールデンカムイには「小樽市鰊御殿」(泊村からの移築の田中家住宅)も登場しているようです)
そして、青山家に特徴的なのは漁家住宅ではなく豪華絢爛な別邸を海から少々離れた丘の上に建てたことです。こちらは「小樽貴賓館(旧青山別邸)」として公開されています。この別邸は、三代目政恵が十七歳の時に日本一の大地主であった酒田市の本間家に招かれて、「あの本間邸以上のものをこの祝津に建ててやろう」と決心した上で建築されたと言われています。(実はこの部分はストレートに受け取って良いのか考えあぐねているのですが、現在はそういうことになっています。隠居用という話もあるのですが、出典が見つけられず。尾ひれはひれが付いたものだと、愛人を住まわせる用だという話もあるのですが、結果的に愛人と滞在したり泊まったりというのは当然あっただろうとは思いますが、その為だけに建築した可能性は低いのではないかと思っています。芸子さんをたくさん呼んで門の前で撮った写真というのは見かけましたので、迎賓的な建物で将来二代目が隠居生活に利用することを考えていたという辺りかもしれません)
また、初代留吉が二代目の政吉に漁業経営を任せ、遊佐で隠居した邸宅は「旧青山本邸宅」として公開されています。

<出稼ぎ漁夫とは>
当初のニシン漁では道内の人員を雇っていたものの、それでは人手が足らなくなり本州からの出稼ぎ者を雇うようになります。
この出稼ぎは一年のうち春~初夏にかけての限られた期間になりますが、ニシンが大漁となればその稼ぎは他のシーズンは働かなくてもいいほどだったようで、本州から大量の出稼ぎ者が北海道に渡っていました。また、ニシン漁の住み込み先では白米を食べられるというのも出稼ぎ者にとっては嬉しい事だったという証言もあります。
出稼ぎ者は基本的に漁家が直接雇用していました。シーズンに入る前に必要な人数を集める為、毎年来てくれている人に現地での採用を任せたり、網元が自分で出向いたりして確保していたようです。「北海道開拓記念館だより」では青山家が漁夫を雇い入れる為に津軽や秋田などとのやり取りや自ら出向いた際の帳簿などの史料(青山家文書)を取り上げた回もありました。
給料が良い他の漁家に人を取られたりすることもあったようで、網元は大量に人を雇うのに苦労していたようです。また、大量に雇入れる段階で給料の一部を先払いする制度になっており、これが不漁になった際に網元を苦しめる要因にもなりました。

<ニシンは何故獲れなくなったのか?>
何故獲れなくなったのかの決定的な原因は解明されていないようです。
ただ、ニシンが回遊魚でその漁場が幕末からどんどん北上していたのは事実で、地球温暖化による海水の温度上昇によるのではないかという話もありますが、確たる証拠はないそうです。また、乱獲による減少もその原因として考えられており、恐らく一因ではありそうですが全く来なくなってしまった理由として確定されている訳ではありません。

第一次世界大戦が開戦した昭和3年、道内のニシン漁獲高が過去最高だったのではないかと言われています。その後も大正期は豊漁が続き、各家が出稼ぎ漁夫の獲得に苦労をするほどだったようです。
昭和に入り、小樽のある後志(しりべし)地方で漁獲の減少があり、昭和5年に後志地方で大不漁となります。ただし、この時は留萌(るもい)などの道内でも北側では豊漁でした。昭和10、11、13年が後志では大不漁になり、第二次世界大戦が開戦した昭和14年に後志での漁獲高が0になります。ただ、後志で不漁でも他の地域(留萌、増毛(ましけ)、天売島(てうりとう)、焼尻島(やぎしりとう)、礼文島(れぶんとう)、利尻島(りしりとう)など)では漁獲がある時期は続きます。北海道全域で不漁となるのは、戦後の昭和30年です。ニシン漁は突然不漁になって忽然と姿を消したのか如くのように扱われていることも多いのですが、北海道全域で同時に廃業に追い込まれた訳ではなく、また不漁となった際には北の漁場へと船を出したり、他の種類の漁への一部転換や工場経営を試みるなど、ただ指をくわえて不漁を見ていた訳ではありませんでした。このあたりの事情は研究している方が今まで少なかったせいか、少しネットで検索をしたくらいでは分からない点です。
なお、小説の中では戦前の段階でニシン漁を廃業させてしまいましたが、青山家は4代目馨の時代になった戦後の昭和26年に漁業改革制度によって漁業権が消滅しています。ちなみに、北大に通っていたのは四代目の方になります。

<今もニシンは獲れないのか?>
ニシンが獲れなくなってしまった確たる理由は掴めないままのものの、稚魚の放流や漁獲量の制限によって近年ニシンが小樽の沿岸にやってくるようになりました。どうやら、ニシン漁最盛期の頃のニシンとは別の種類ということですが、この十年ほどは毎年群来が観測されています。参考:「ニシンの群来が来た!」※群来で白くなっている海の写真があります。
ニシンが鰊粕として利用されることは今後はなさそうですが、群来が来るようになり再びニシンを町の活性化につなげようという動きが小樽周辺を中心に起こっています。また、日本海側の各地に残された鰊御殿の維持管理、活用というのも各地で行われています。

以上、ざっくりのつもりがかなり長くなってしまいましたが、題材にしたニシン漁がどういうものだったのかが何となく伝われば幸いです。
大変参考にさせていただいた「近代北海道における鰊漁業の歴史地理学的研究―衰退期に注目して―」(服部 亜由未、2013)はこちらのダウンロードpdfで読めますので、興味のある方はぜひどうぞ。
小樽貴賓館が発行している「北の美術豪邸 旧青山別邸 写真集」には豪華な襖絵の写真や解説のほか、別邸の平面図が載っており参考にしました。別邸は一見の価値がありますので、小樽におでかけの際には少し足を伸ばしてぜひ!